碩学・郭沫若によれば、この字に配されたメは女性の乳房か、あるいは入れ墨であろうという。
人を示す大の両脇に目に鮮やかな乳房か入れ墨があるさまから、爽はまず明らかなものをいい、転じて「はっきり分かれる、さっぱりとしている」という意味が生まれる。分離のさまが明瞭なことをいうこの字が、なぜ清々しさに近い”さわやか”という意味にまで転じたのかは不明である。『老子』には「五味は人の口をして爽わしむ」というくだりがある。五味はさまざまな味に富んだ贅沢な料理のことで、この場合の爽は「たがわしむ」と読む。味覚が分かれる、つまりバラバラになるというほどの意味になり、すべからく世の快楽は味覚、視覚、聴覚などを刺激し、心の平衡や安寧を失わせるから避けるべきであると続く。刺激という外界からの訪れそのものに
対して強い疑義を抱いた学者にK.プリブラムという脳生理学者がいる。彼は言い古された知覚の純粋性を疑う。彼によると脳の機能は、突き詰めると「解釈」と「構築」である。ある情報が脳に伝わると、脳はそれを解釈し現実として「数学的に」構築する、というのだ。ゆえに客観的現実とよばれるものは脳が「数学的に」構築した像ということになる。五味を食らおうが、美しい旋律に耳を傾けようが、一切は解釈し続け、構築し続ける脳が見せる幻に過ぎない。「現実」の堅固な底が抜け、我々は宙に浮く。脳による「解釈」と「構築」に先立つ世界はどの様なものなのか?
老子ならずとも心は千々に乱れとても安寧は得られそうにない。
梅澤北明(ライター) |