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| 早は日と甲の会意。陽が人の頭(甲)の上に昇り初める明け方の時間帯を表わし、転じて時間の進行がそのような状態にあること、すなわち“未だ早い”こととなる。余談ながら甲は木の芽が地上に顔を出した様子の象形である。いまだ種子の外皮をまとっている初々しい芽がこの甲である。してみると、”早”には時間が若いという意が二重に含まれているともいえよう。移ろう時間のその一瞬が宿っている、考えようによってははかない文字である。 ”早”の字の使われる熟語で秋の季節にかかわるものに早蛩(そうきょう)がある。これは初秋に鳴くコオロギのことで、その音色を想像するだに涼し気で、一抹の侘びしさがある。また、この時期の格別の過ごしやすさ、涼しさを早涼という。やがて訪れる冬の寒気と対比するに、この時期の冷気がいまだ“早”ということなのだろうか。 常春、あるいは常夏は形容として使われるが、常秋は馴染みがない。季節とはおしなべてそういうものだろうが、とりわけ秋という季節には、過ぎ行く時間の足取りのはやさがより強く思われるようだ。元来、秋とは短い季節である。夏が去り、次の季節である冬には“いまだ早い”だろうが、意外に素早く季節は巡る。変化は常に急で、時間の進行もまた容赦がない。“いまだ早い”という猶予は永くは与えられないものである。皮肉なことに、歳を重ねるごとに秋は素早く去っていくようだ。この時期、日もまたつるべ落としで暮れるものなのである……。 ……さて。 いささかキワどく、寂寥(せきりょう)の気配もありすぎるかもしれないが、秋の夜長のつれづれにあえてこのようなことを想ってみるのもまた一興かもしれない。無論、お膳立てはしっかり整える。月見はどうだろう。早涼の夜気のなか、皓々と降るような月明りの下でこんな感傷と戯れるわけだ。盃の中に留めた月にもまた風情がある。辺りを満たす虫のすだきも夏とは格別の趣がある。感傷に浸るにはいっそ賑やかすぎる場合もあろう。 秋は宵の口、すなわち早夜に愉しみがある、と平安の昔、古人はいった。 | |||||
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