アジア・レポート
「生体情報学とシンガポールにおけるその取り組み」


『アジア・レポート』では本号から4回にわたって、アジアにおける最新の情報通信技術動向をお届けします。第1回は、99年2月に来日したシンガポール国立大学 生体情報学センター ディレクターTan Tin Wee氏の講演の中から、シンガポールにおける生体情報学の取り組みを報告します。
インターネット技術センター長 後藤滋樹


■生物学に起きたパラダイムシフト―バイオインフォマティックス―
人の形質を作る遺伝子やDNAの構造について本格的に解析され始めたのはここ数十年のことで、その意味では生物科学という学問は非常に若い学問です。1953年にDNAの二重らせん構造が発見されて以来、60年代には遺伝暗号が解読され、70年代、80年代にはコンピュータの利用により遺伝子組み換え技術が飛躍的に発展してきました。そして現在、インターネットの普及を核としたネットワークと情報技術(IT)はバイオインフォマティックスという、人類の未来にとって欠かすことのできない新たな分野を産み出しつつあります。
人間がもつ約10万個の遺伝子は、約30億の塩基対により染色体DNAに記録されていると考えられています。この中で現在解明されている遺伝子は約1万個に過ぎません。残りの遺伝子全てが解明されたら、様々な病気の解明や医薬品の開発、また人類の進化の謎に迫るなど、そこには限りない可能性が秘められているのです。バイオインフォマティックスは、インターネットとIT技術を最大限に生かし、遺伝子情報を全て解析するという、生物学に起きたパラダイムシフトであり、医学や化学をも巻き込んだ非常に学際的な研究開発領域であるといえます。そしてこの中で研究発展の鍵を握るのがソフトウェアなどの技術領域なのです。


■BioKrisの開発
私の母国シンガポールでは、統合された効率的なデータ処理のアプロ−チとして、シンガポール国立大学の生体情報学センターが中心となり、BioKris(正式名はBioKleisli)というシステムを開発・導入しています。BioKrisとは、ネットワーク上のDBに置かれている様々な形のデータ(たとえば遺伝子の構造や配列、医学系学会誌の情報など)を統合知識化するアプリケーションです(図参照)。BioKrisを使ってハエの目を調べた場合、レベルごとにクリックしていけば、細胞や遺伝子同士の複写にいたるまで、簡単な操作でどんどん深くまで解析していくことができます。また、この仕組みによって、薬物がどのようにしてある種の癌を引き起こすのか、あるいは抗生物質がどのようにして菌を殺すのかなど、これまで数ヶ月はかかっていた情報の解析と統合が、一般的なWebのインタフェースのようにクリックしていくだけで簡単に可能になるのです。
現在、生体情報学センターでは、生体情報学の研究や生命科学の研究、データベースの統合、データマイニング、データの顕在化、生物体組織銀行サンプルデータの収集から臨床解析など、数多くの分野での研究を手掛けており、次に説明するDNAchipを組み立てるためのソフトウェア開発も行っています。


■DNAchipによる解析
DNAchipとは、DNAを半導体上に規則正しく配列したものです。目的の組織や細胞で発現している全ての遺伝子を蛍光標識してDNAchipと反応させると、相同の配列を持つDNA同士が結合し、コンピュータで解析すると、DNA上のどんな配列のDNAがどれだけ発現しているのかを調べることができます。以前は1回の実験で1つの遺伝子しか発現量を解析できなかったのが、96年頃より発達したDNAchipテクノロジによって数千個以上の遺伝子の発現量を1度に総合的に解析できるようになりました。この革新的なテクノロジによって研究のスピードが上がったのです。また癌を予防するための薬品、遺伝子病や流行病原菌などを発見するための医療法を、一人一人にカスタマイズさせていく開発が進められています。DNAchipの1nm×1nmの小さな碁盤目に人の健康状態の情報が埋め込まれるのですから、将来は全ての人がチップを持って歩いても不思議ではありません。しかし小規模なシンガポールの機関では、DNAchipを実際に製造することができません。そこで、数多くのソフトウェアが眠っているイギリスのIT研究所であるケンブリッジ・デジタル研究所とパートナシップを組んだり、シンガポールの生物学者にITを学ばせることにより、生命科学を研究している機関と情報を共有しているのが現状です。


■バイオインフォマティックスは領域を越えて
「医学研究室の中には生物学者と同人数ぐらいのコンピュータ・サイエンティストが必要になるだろう」とElbert Branscombは言いました。一人の人が一つの学問にこだわっていては、短期間で大きな成果を産み出すことはできません。私自身、インフォメーションテクノロジストであり、生物学者であり、さらには米国シリコンバレーに生体情報学ソフトウェアを商業化するKrisTechInc.のビジネスマンでもあります。BioKrisが全てを解決してくれるわけではありませんし、DNAchipによる解析もこれからが本番といえます。休んでいる暇はありません。私達は専門領域を越え、研究から製造、そして実用化にいたるまで何でもやらなければと思っています。


シンガポール国立大学 生体情報学センター
ディレクター
タン・ティン・ウィー
*主な役職/APNG(AsiaPacificNetworkingGroup URL:http://www.apng.org/)議長、シンガポール医療情報協会会長